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わくわく60代の旅

還暦そして定年ののち

何度も辞表を出したのになんとなく定年の60歳 2014年
まさかと思った元気な山男だった上司が病で天国へ 2015年
退職のあと2年後には熊本地震 2016年
母を天国に見送った 2017年
それからやっと立ち直ろうとする頃に新型コロナウィルス感染
で世界的パンデミックになってしまった。一歩先は分からない。
パンデミックの時代は遠隔コミュニケーションが重要になってきた。2020年
仕事を離れた途端に思ってもいないことが次から次に起こっている。2021年
 
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わくわく50代の旅

KSN(熊本シニアネット)とともに

50歳の時、西原村の俵山の麓のギャラリーカフェを無理して購入した。配偶者の理解を得るのも大変だったが、”ここがよか”・・駄目と言われると”いやんいやん”とぐずる子どものように実力行使で。(^^;) だってやっと出来たKSNの俵山サロンがなくなるのが嫌なんだもん。

2002年4月~2003年3月 熊日新聞夕刊に1年間毎週水曜連載 ピポパポネット

 

 

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わくわく40代の旅

40歳で中年勤労大学生になる 

 ついでに「社会福祉士」も目標へ

熊本に福祉学部が出来るとあって二部の一期生で入学。30代の頃は、社会学的知識が不足していることを痛感して居た頃だ。久しぶりの二回目の遅れた青春時代を。午後5時迄の病院勤務(放射線技師)で午後6時からの大学生活を始めた。18歳の現役の若者達もいるなか、恥ずかしくもあったが、再びの英語も一緒に黒板に出て課題を解いた思い出も。専門科目以外に美術も、韓国語もスペイン語も、なにせ安い学費の元を取らねばと余剰科目も沢山取った。社会福祉士の実習場所交渉も我々一期生で開拓した。我が家の近くの特養でも受け入れてくれた。U市役所福祉課での実習も行った。ぐっと年齢の上がった実習生で現場の担当者は扱いにくかったろう(^^;)・・そうして卒業時には勉強しないまま奇跡的に社会福祉士国家試験合格、そのままついでに大学院へ。それも職場へも家庭へも事後承諾で。

職場と自宅の往復しか知らない世界がパッと広がった40代だった。同窓の幅の広さ、学ぶことの楽しさを知る日々だった。それにしても職場の仲間と上司にはすごくお世話になってしまった。二十数年前のことだ。最近の厳しい現状では許されないことだろう。

修了後は何もなかったような、いまでも実務経験のない誰にも誇れないペーパー社会福祉士である。オツホン

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旅と人権

 30代の私の旅=半ば義務のような

  何の罪もない人々に起こった理不尽な出来事の数々

『メコンの風景その暮らし』(編集)

1987年 枯れ葉剤汚染地区を歩く(編集)ベトナム戦争時代米軍による枯れ葉剤(オレンジエージェント)が蒔かれた地域での死産や奇形の多発;水汚染調査を兼ねて出かけた。まだ国交がなかった時代タイから空路で入国。ツーズ病院ではベト・ドク(当時ドクは脳症で意識朦朧状態、このままでは2人の生命が危険と分離手術を考えらていた頃)との対面。ベンチェ省では枯れ葉剤散布地では沢山のホルマリン漬けの奇形胎児との対面。ダイオキシンを日本に警告したフォトジャーナリスト中村悟郎の案内で化学物質の人体への影響の怖さを知った旅の記録


『南アフリカの流砂』(著)

1991年8月 南アフリカ・アパルト法基幹法の廃止直後に南アフリカをANC(アフリカ民族会議)の案内で訪問し、見聞した。当時日本では反アパルトヘイト運動が健在だった。ヨハネスブルグのANC本部ではシリルラマポーザ書記長(現在南ア大統領)の話を聞いたり、マンデラの片腕のANC全国議長との握手が印象に残っている。「今、経済制裁を解除したらポーズだけ残って交渉の進展が進まない。最後までポットのお湯のコンセントを抜かないで」という話も。黒人居住地のソウェトやケープタウン郊外を案内して貰い貧富の差や暴力支配を感じた。肌の色の違いというだけで差別されたあとの人類の平等を勝ち取ったあとは・・(なかなか格差解消も進んでない)


『隠された職業病』(編集)

1993年 韓国 二硫化炭素中毒症の八代興国人絹の被災者と 輸出された日本の中古機器を使って被災した韓国・源進レーヨンの被災者の交流をサポート。日本では職業病はひたすら隠された。そのために二次被害を受けた隣国の労働者があった。さらにこの中古機械はC国に転売されたそうである。熊本においてもあまり知られていないCS2中毒症・・かってのレーヨン工場である興国人絹も今は名前は変わっている。

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めざせ!わくわくの世界]

34歳が私の寿命だった。

あとは余生と思っていたが、今ではまだまだ余生が足りない

しいことがもっと欲しい。どんでん返しの楽しみが、ワクワクの世界が広がるとよい。そう思いながら小さなことが面倒くさいと思うようになった。奇想天外が大好きで世間共通の緻密な言葉の行き来やその組み立てを無視したい心情である。

自分の気持ちがまず第一と近所づきあいでも思うようになった。「こんにちは」と言っても返ってこない挨拶なんて、どうでもよいし、短い余生だから気にしない。自分でやりたいことを言いたいことを 我が蝋燭の炎が消えるまで どしどしとやるしかない。